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「私の出産」~母から子へ伝えたい言葉~

第1回ぐるっとママ懸賞作文

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【奨励賞】片岡まりさん「私のトロフィー」

【奨励賞】片岡まりさん「私のトロフィー」

『思いやりある優しい心、当たり前だと思わない感謝の心を持っていること。それは何にも勝る生きる力。3人が多くの人に愛されますよう。』   「女の子やね」 安堵と疲労でぼーっと足元を気にする私に夫がそう微笑んだ。 暑くよく晴れたそんな日に、私の小さな娘が生まれた。名前は、はな。 「女の子やね」にはたくさんの意味が込められていた。 はなが生まれる約2週間前、私の母が死んだ。 検査入院だったはずが容態が急変。これもまた暑い日に突然だった。 大きなお腹で駆けつけたけれど間に合わなかった。 大きな声で泣いた。 同じように悲しむ姉が、私を車椅子に乗せたその後のことは覚えていない。 けれど葬儀へ立ち会ってくれた友人が、 「こんなんで産めるのかなぁ」 と呟いた私に 「産めるよ!絶対産めるよ!」 と腕を力強く掴んだ時、あぁ私が産まなければ誰も代わってはくれないんだ、と腹を括ったことは昨日のように覚えている。 後日母の荷物から、美しい母の字で書かれた七夕飾りを見つけた。 "まりの出産が無事でありますよう!" こんな時まで人のことを。そう思った。 恋しさ悲しさ、感謝の気持ち。会いたくて会いたくて、泣いた。 人が喜ぶことが大好きな気遣いの母だった。 母には2人の娘と息子が1人。 口癖は「私にしては上出来の申し分ない子供達に成長してくれた」だった。 母だってすごいのになぜそんな言い方をするのか、と思っていた。 妊婦検診で、お腹の子の性別ははっきりしなかった。 「男の子かなぁ」 と一度先生が言ったこと、周りが私の顔やお腹を見て、 「男の子じゃない?」 と言うので男の子だろう、と私も思っていた。 陣痛は予定より1週間早かった。 きゅーっと締め付けられる感覚で、これは陣痛だ、と確信するのは初めてでは少し難しかった。 想像より痛くないや、と思っていた自分の甘さに気づいたのは夜中の3時。 暗い部屋で考えるのは母のこと。 この子に会いたかっただろう。どんなに楽しみにしていただろう、とまた泣いた。 冷静に、今こんなに痛くて、最終的にどうなるのだろう、と不安になったりもした。 そんな私の思いが伝わったように陣痛は不定期だった。10分になり7分になり、15分に戻ってまた10分。 娘も不安で迷っていたと思う。 「お母さん、私、今日生まれて大丈夫?準備できてる?水色の産衣用意してたけど、私女の子だよ?」と。 たくさん迷って戸惑って緊張した娘は、私がこれ以上は無理!となったその時スルーっと出てきた。 あんなに長く苦しんでも、こんなあっさり生まれるの?と思わせてくれた小さな娘。 7月25日23時に始まった陣痛は、7月27日3時57分、はなの控えめな産声で無事終わった。 「女の子やね」は、「お母さんが戻ってきてくれたね」と私には聞こえた。 沐浴を終え私の元へ来たはなは、想像してきたどれとも違う、どれよりも可愛い顔をしていた。 バスタオルごしの温かさや重み、おでこの香りやその時私の鼻と彼女のおでこが当たる感覚を、私は今でもはっきりと覚えていて胸をきゅーっとする。 これが私の初めての出産。 あれから11年、娘には2人の弟がいる。 3歳違いの弟は、陣痛から2時間で生まれた。5歳違いの弟も同じく。 戸惑いながらも産道を広げてくれたはなの努力だ。 それを感じるのか、弟達は姉を大好きで、そんな3人を見て私はこう思う。 「私にしては上出来の申し分のない子供達だ」と。 自分を卑下しているのではなく、むしろトロフィーを手にしたような誇らしい気持ち。 私が3人へ伝えたいこと。 それは、生きていたら予期せず悲しいことや辛いことはやってくる、ということ。 けれどそんな時、それまでに受けた愛情が、みんなの中で大きな生きる力になるということ。 そしてみんなも誰かの生きる力になっているということ。 人を想うように自分を愛し、素直に愛情を受け取れる人であってほしい。 母はいつもずっとみんなを応援しています。 生まれてきてくれて、ありがとう。   高知県 片岡まりさん 題名:私のトロフィー 子どもへ伝えたい言葉:「思いやりある優しい心、当たり前だと思わない感謝の心を持っていること。それは何にも勝る生きる力。3人が多くの人に愛されますよう。」 

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【ぐるっとママ賞】高木礼衣さん「奇跡を装い必然的に生まれた尊い命へ」

【ぐるっとママ賞】高木礼衣さん「奇跡を装い必然的...

『この世の誰もが使命を持って生まれた。その使命は、自ら見出し、世のため人のために役立てて完結するんだ。』   目を瞑るといつでも見える。4人の子ども達がこの世に誕生した時の温かく愛に満ちた瞬間。 私は、人は生まれる前から意志を持っていると思う。お腹の中にいる時から、いや、もしかしたら、そのずっと前から…。 これから始まるお話は、まるで物語のような本当のお話。ぜひ、心を真っ新にして読んでね。 子供のころから優等生のお手本のようだった私は、結婚しても子どもを設けず、一生キャリアウーマンとして活躍するつもりだった。しかし、ある日、妊娠が発覚した。正直、子供は大の苦手だった。なのに、初めての感情がこみ上げ、初めて感じる種類の幸せを感じた。気づけば「嬉しい。」と呟いて、夫と電話で喜びを分かち合い泣いていた。 あなたを授かってからの私は、今日までずっと、目に見えない愛と言葉を超えた温かな繋がりという幸せに包まれて生きている。 初めてのお産では、不思議な体験をした。 陣痛の波を越える度、「すべてを受け入れる。」と聞こえる? その言葉通り痛みも不安もすべて受け入れるとスムーズに出産してしまった! そして、助産師さんがあなたを胸に乗せてくださり、「この子が全部教えてくれるわよ。」とニッコリ?その意味が後に明らかになることは、この時点では知る術も無かった。 3年後に次男が誕生。 今度は陣痛中に「完全にお任せする。」と聞こえる? その言葉通り、独創的でユニークな次男の発想を尊重し、ありのままに完全にお任せすると、次男の個性がキラキラ輝き皆を和ませる。 なるほど!子供達が、生まれる前にそれぞれ唯一無二の個性を輝かせながら愛し愛される生き方を新米ママに教えてくれている! その2年後にまた1人。 今まで何のトラブルも無かった私にとって想像もしない現実にぶつかった。 「無脳症。」脳が剝き出しなため、お腹の外で生きることは不可能な病気だ。 皆さんは、この子も他の子達と同じように意志を持っていたと思いますか?わざわざ障害を持つことを自ら選んでお腹に宿ったと思いますか? 当時の私には分からなかった。どうして?何が悪かったの? それでもいつもと変わらず元気いっぱいな子供達。一緒に笑って過ごせる訳が無い! しかし、しばらくすると、子供達の珍劇場に嫌でも笑ってしまうのだ。洗濯板と菜箸をバイオリンに見立てて真剣に演奏する長男と、それを見て真面目に拍手する次男。家の中で水泳帽と水中眼鏡をかけながら積み木に夢中になっているオシャレな姿…。 おやつの取り合いで真剣に喧嘩する姿さえ日常の彩りとなる始末。 いつしか、第3子の現実を抱える私の目の前で、変わらず一瞬一瞬自分の命を懸命に生きる兄弟に、命の誕生がいかに奇跡で有難いことかと感謝が湧き上がるようになった頃、第三子は、私に全く痛みを与えることなくスッと産まれてスッと逝った。 両親に愛し愛されることしか知らない幸せな人生だった。そんな素敵な君に、天使君と名付けた。 天使君は、「信頼して、笑って。」と言った。 「何をどう信頼すればいいの?」 「この世の誰もが使命を持って生まれたこと。その使命は、自ら見出し、世のため人のために役立てて完結するんだ。僕の使命は、その命の秘密をお母さんに伝えて、まずは身近な家族の命を、そして、世界中の生きとし生ける命も同じように唯一無二の尊い使命を持った命だと信頼して、お母さんに幸せな笑顔でみんなに希望を与えてもらうきっかけとなること。その尊い役目を精いっぱい生きさせてくれてありがとう!大好きなお母さんのお腹でそれができて幸せでした!」 そのメッセージは、泣き崩れる私に生きる希望をくれた。 その3年後、長女の神楽ちゃんが「大丈夫!すべて上手くいく!」というメッセージと共に誕生。 人は、必ずその人にピッタリの使命を持って生まれる。 奇跡を装い必然的に生まれた尊い命へ。 あなた達の使命を真っすぐ生きながら、周りの人達も幸せにすると、みんなの命が喜ぶんだ。 生まれてくれてありがとう!   高知県 高木礼衣さん 題名:奇跡を装い必然的に生まれた尊い命へ 子どもへ伝えたい言葉:「この世の誰もが使命を持って生まれた。その使命は、自ら見出し、世のため人のために役立てて完結するんだ。」 

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まなはねさん「胎教大成功!私のバースプラン!」

まなはねさん「胎教大成功!私のバースプラン!」

『成長こそ幸福。挑戦する人生を一緒に歩いていこうね。』   翼くん、お母さんと同じ誕生日に生まれてきてくれてありがとう。翼くんのおかげで家族みんな幸せになりました 毎日幸せをありがとう。 毎日毎日「大好きだよ 」「あいしてるよ 」「生まれてきてくれてありがとう 」と、伝えたいの!翼くんはお母さんの宝物だよ。  実はね、翼くんが生まれたのは奇跡の連続なんだよ。お母さんはね、いつも「最高に運がいい」と思って生きてる。そんなお母さんが『35歳までに もう一人子どもが欲しい』と思ったの。そしたらね、お腹に赤ちゃんがいることがわかったの。先生に生まれてくる日を聞いたらなんと!お母さんの誕生日近くでした!すごい奇跡!  先生から「バースプラン決めるといいですよ」と言われた時、バースプランは”私の誕生日プレゼントになってね”と、お腹にいる翼くんにお話したの。  その後、翼くんと繋がりを持てる【右脳教育】と出会ったの。 「赤ちゃんは お腹にいる時が一生の中で一番天才なんだよ」とお話聞いてね、 ワクワクしたんだよ。 お母さんがイメージしたことは翼くんに伝わると聞いたの。そして、ゲームを試してみたよ。 「3枚並べたカードの中から赤いカード見つけたらお腹を蹴ってね」と、お話するの。お母さんがイメージしたカードを翼くんへ送る。一枚一枚「これかな?」「これかな?」と。そしたらね、見事にそのカードの所でお腹を蹴るの!何度挑戦しても同じ!大正解!その時、「あー、翼くんと繋がっているんだなぁ」と心から嬉しくなりました。この子を、守りたい!と、さらに愛おしくも思えたんだよ。  そんな幸せな妊婦生活の中で一つだけ、悲しかったこともありました。 それは、逆子になったこと。翼くん、生まれてくる少し前に頭と足と逆さまになってしまったの。生まれてくる時、翼くんが大変になるかもしれない。 毎日毎日、逆子体操に挑戦して、翼くんにも、「頭は下だよー」とお話していたんだよ。そのおかげで、ちゃんと生まれる態勢にくるっと回ってくれました。嬉しくて、安心して、たくさん泣いちゃった。お腹の中で、一緒にがんばってくれてありがとう。  ついに出産一週間前、病院へ行った時、先生にバースプランのお話をしたら、ひどく怒られちゃったの。「母親の勝手を押し付けるのはバースプランでない!」と言われちゃった。それからは、言うのをやめたんだよ。 その後、私の誕生日前日。病院では、「まだ生まれる気配がない」と言われたの。その日はお兄ちゃんと夕方サッカーをして、疲れて帰ってきて横になっていたの。ふと、「あー、明日お母さんの誕生日だー」と、お腹をさすったの。すると、モゾモゾモゾ。翼くんが下に降りたのがわかったの。 『明日生まれる』と、確信。 翼くんにお願いしたの。「これから夜になるから、朝まで待ってね。」と。 順調に陣痛がきて朝を迎え、お父さんも出産に間に合うように一度会社に行って、私はジジから病院へ送ってもらったの。翼くんへは「朝9時まで待ってね」とお話したの。 翼くんね、もの凄いスピードで生まれてきてくれたんだよ。病院へ着いて2時間。可愛い産声を聞かせてくれました。願い通り、私の誕生日に生まれてくれきてくれました。私の生涯の中で一番嬉しいプレゼントです。 私のバースプランを怒った先生は「同じ誕生日おめでとう」と、母子手帳に書いてくれました。先生もびっくりしてたんだよ。  願いは強く願えば必ず届く。「最高に運がいい」と、イメージすることで目に見えない未来を描くことができる。翼くんの妊娠・出産からたくさんの方々に勇気と希望を与えることができました。翼くんも、8歳になったけど、挑戦する人生を歩んでくれてお母さんは刺激をもらってます。 成長こそ幸福。挑戦する人生を一緒に歩いていこうね。   新潟県 まなはねさん 題名:胎教大成功!私のバースプラン! 子どもへ伝えたい言葉:「成長こそ幸福。挑戦する人生を一緒に歩いていこうね。」 

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たまこさん「大切な笑顔」

たまこさん「大切な笑顔」

『心臓病の我が子が教えてくれたこと』    幸運なことに私は3人の子どもを授かっております。現在7か月の3人目は、生まれてすぐにファロー四徴症という先天性心疾患であると診断されました。  妊娠中は、1人目、2人目のときとは違ってつわりも軽く、至って健康に過ごすことができました。3人目だったので、産休も気楽なものでした。  出産は破水から始まり、ちょうど予定日にご対面となりました。元気に泣く3040gの女の子でした。生後1日目で母子同室になりました。昼夜問わずなかなか泣くので、少し寝不足感がありましたが、3人目だったので気楽にいこう〜とゆったりした気持ちでした。生後2日目、看護師さんから突然お子さんのことで先生からお話がありますと言われました。先生からは心臓に奇形があり1歳前後で手術が必要になるとのお話がありまた。診断名など詳しい説明は明日旦那さんと一緒に聞いてもらいたいので来てもらってくださいと言われ話は終了。頭が真っ白でした。診断名は教えてもらえませんでしたが、先生に言われたことをインターネットで調べて、たぶんファロー四徴症だろうと予測がつきました。涙が止まりませんでした。泣きながら妹に電話もしました。妹に泣きながら電話したのは人生で初めてでした。翌日は夫と一緒に説明を聞きましたが、診断名は予想通りでした。症状は今のところ目立っていないが、低酸素発作を予防するためあまり泣かせないようにとのことでした。それから退院まで、病室でずっと先生に言われたことを思い出しては泣き続けました。妊娠中何か食べたらいけないもの食べたのかな、この子は大きくなることができるのだろうか、手術や入院で家を空けるようになれば上の子たちのことはどうしよう、泣かせないようにってどうやって?様々な思いが次から次へと込み上げました。コロナ禍で面会禁止だったので誰にも会えず、寂しくて辛い時間でした。  退院してからの私は食欲も気力も失っていました。それでも、上の子たちがいたので起きて動くしかなかったし、ご飯も詰め込んで食べていました。夫は買い物にでも行ってきたらと外出をすすめてきました。夫は何も言いませんでしたが、気晴らしに行って来させようという意図もあったのでしょう。私は嫌々行っていましたが、行ったら気晴らしになって気持ちが軽くなりました。一度だけ、買い物から家に帰ると夫が目を真っ赤に腫らしていたことがありました。口数少なく気持ちを話さない夫ですが、病気のことを考えて辛かったのでしょう。  娘は病院とは違って泣き続けるということはなく、夜も寝てくれるし体重増加も発達も順調でした。ただ、泣くと顔色が土色っぽくなり、強く泣いたあとは口の周りが青くなってぐったりしているように見えることもありました。5か月になってすぐ、地元の病院から県外の病院へ紹介状が出て、初診から2週間後には検査入院と慌ただしく時が過ぎていきました。検査入院から退院して10日ほど経った夜、娘の機嫌が悪いと思って抱き上げたら突然意識を失いました。恐れていた低酸素発作でした。一瞬でしたが、死んでしまったかと思い、今でもあのときの恐怖がはっきりと脳裏に焼き付いています。手術は半月〜1か月程先の予定でしたが、早い方が良いということになり、発作から9日後に手術を受けました。ずっと母乳育児だったので哺乳瓶を嫌がる娘に哺乳瓶であげなければならない水分制限は想像を絶するものでした。恥ずかしいことに看護師さんの前で泣いてしまいました。水分制限は壮絶でしたが、退院まで経過は順調で入院から23日目に退院となりました。内服もまだ続いていますが、体重増加は良好、笑顔が増えました。上の子たちが夕方家に戻るとニコニコ笑ってお出迎えしています。家で過ごして居られる幸せを家族全員で味わった思い出の夏となりました。これからも子どもたちの笑顔を守っていきたいと強く願っています。   高知県 たまこさん 題名:大切な笑顔 子どもへ伝えたい言葉:「心臓病の我が子が教えてくれたこと」 

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西浦四季さん「私の誇りはあなたたち」

西浦四季さん「私の誇りはあなたたち」

『自分を大切に、周りの人を大切に。そうすれば、あなたの周りは笑顔で溢れてる。』   「将来、妊娠は難しいかもしれない」 そう言われた中学3年の夏。 思春期の摂食障害の診断を受け、病院通いの日々が続いていた。 仕事人間だった母は、私の通院に時間をさき、栄養たっぷりのメニューを毎日考えてくれた。医師からこの言葉を言われた時は、そんな母に、申し訳ないなという思いでいっぱいだった。 「妊娠」という言葉にまだピンとこなかったけれど、母の悲しそうな顔が今でも脳裏に焼き付いている。 そしてあの時私は「頑張らない」を頑張ることにしたんだ。部活も勉強もほどほどに、幸せななことに私の周りには温かい家族や優しい友人がいたから、その人たちとの時間を楽しむことにした。すると不思議と体調が改善していったのだった。 そして、それから何年も過ぎ、お腹に宿った命。 妊娠を知った時、自分の中から愛が溢れてくるのを感じた。 水に入れたドライアイスのように、もこもこと溢れてきて身体中が愛で満たされた。 「奇跡だ」そう思った。そして、「命をかけてこの子を守る」って、心に誓った。まだ生まれてもないのに、こんなことを考えるなんて不思議だな、なんて思いながら、1日1日をかみしめながら過ごしていた。 幸せなことばかりじゃなかったよ。酷い悪阻、目で赤ちゃんの無事を確認することのできない不安。押し潰されそうになりながら、それでもあなたが生まれてくる希望が大きくて、私は前を向いて歩いてた。 まさかこんな思いが4回もできるなんて、この頃は思ってもいなかった。 妊娠に慣れることなんて全くできなくて、毎回悩み涙して、不安な夜を過ごした。でも、あなたのことを考えて、ああでもないこうでもないと思えるって、とてつもなく幸せなことなんだってお腹に手を当てて感謝をしたんだよ。 出産も本当に一人一人違った。 でも私が毎回心がけていたことは「1人じゃない。赤ちゃんと一緒に出産を楽しもう」ということ。痛くて痛くて、楽しむってなに?って感じだけれど、でもそう思うと、恐怖より楽しみがまさったのだった。 どの出産も忘れることができないけれど、特に印象的だったのは次男の時だった。 ちょうど夜勤の人と交代の準備で、分娩室に残された私と夫。ものすごい陣痛の波が押し寄せる。モニターを見ながら、「くるよー、大きいのくるよー」と半ば楽しんでいる夫にツッコミをいれる余裕もない私。やっと助産師さんがきてくれた時には子宮口全開。「そりゃそーだ」冷静にこう思ったのを覚えている。 それから何度かいきみ、「出てくるよー!」そう言われ背中を持ち上げてくれた。 神々しい光に包まれた生命が生まれる瞬間だった。あまりにも美しすぎて、あの光景が忘れられない。出産の素晴らしさを改めて感じたのだった。 「あなたが4人の母になるなんて思ってもみなかったよ」 そう笑いながら母が言った。それは私が1番思っている。 昔のことを思い返すと、本当にこうやってこの子たちに出会えたことを誇りに思う。 そして、伝えたい。自分を大切にしてください。そしてあなたの周囲の人も大切にしてください。頑張りすぎないでください。人生を楽しんでいつも笑っていてください。 偉そうなことは何にも言えない母だけど、でも私自身、周囲の人の愛に包まれて今ここにいる。自分の命より大切だと思えるあなたたちちとも出会えた。 愛があれば幸せになれる!これは自信を持って言えるから。 あなたたちの未来が輝くものでありますように。   徳島県 西浦四季さん 題名:私の誇りはあなたたち 子どもへ伝えたい言葉:「自分を大切に、周りの人を大切に。そうすれば、あなたの周りは笑顔で溢れてる。」 

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UKIさん「来てくれてありがとう」

UKIさん「来てくれてありがとう」

『私たちの所に来てくれて、ありがとう。あなたは、3年越しに私たちのもとに来てくれました。授かった時の喜びは、今でも鮮明に覚えています。』    あなたが生まれてくるまで3年間、不妊治療のために病院に通って、あなたが来てくれるのを待ち遠しく思っていました。赤ちゃんに来て欲しい、けど来てもらえない、希望と不安と落胆、いろんな感情が入り混じった3年間でした。でも、あなたは本当にベストなタイミングで私たちのもとに来てくれました。あなたのおばあちゃんが脳の疾患で大きな手術をして入院・リハビリをして、それがある程度落ち着いてから、あなたはお腹の中に来てくれました。今思うと、手術の手続きや入院にともなう着替えなど、私が色々と動いていたけど、その時仮に妊娠していたり、子どもがいれば自分の母親(あなたのおばあちゃん)のためだけに動くことはできなかったと思います。私たちのことを思って、3年間来ることを待ってくれていたんですよね。本当にありがとう。  あなたを身ごもってはじめての妊娠生活は、当たり前ですが初めて経験することばかり。妊娠初期から骨盤の関節が痛くなって、急に立ち上がれなくなったり歩くのも痛かったり、痛い経験もしました。でもそれは、もしかしたら私が無理をすることをあなたが止めてくれていたのかもしれません。当時の職業は、体が資本で力がいることもあり、流産する人も少なからずいました。あなたは自分自身と私(母親)の体を守ってくれたのかな、と思います。あなたと一心同体で過ごす妊娠生活は、とっても神秘的なものでした。お腹の中に命がある喜びとあなたとつながっている何とも言えない感覚、毎回の検診であなたの顔を見ることが本当に楽しみでした。  あなたが生まれた産院は、洋館のような階段には赤い絨毯が敷かれているようなきれいなレディースクリニックでした。当時、単身赴任だったこともあり、計画分娩で産みました。促進剤を打ってもなかなか生まれてこようとしないあなた、バルーンを入れてやっと陣痛が始まりました。はじめての陣痛はこんなに痛いものかと、ただただ静かに耐えていました。痛いーっと叫ぶことはなかったです(笑)痛みも結構強くなっている中、助産師さんが「夜の9時ごろまでには生まれるね」と言った時、そばにいたお父さんの腕時計で何時なのか確認するのを迷いました。でも、耐えかねて時間を確認してしまい、まだ3時間位あったことに、この痛みがまだ続くのかーっと絶望したのを覚えています(笑)あなたのお父さんと私とあなたの3人の共同作業で無事に生まれてきてくれたあなた。初産なのに、一回いきんだだけで出てきたあなた。この作文を書きながらも、涙が出てくるくらい、本当に待ち遠しく嬉しかったのを今でも覚えています。当時も生まれてきた時は、"やっと会えたね"と泣きました。ただ、はじめての出産で必死すぎて、生まれてきた瞬間にあなたの初声が聞こえないことに気づいていなかった母です(笑) ⁡  あなたは生まれてすぐにヘモグロビン値が低く、大きな総合病院にかかり採血したり通院したり薬を飲んだりしました。生まれてきたばかりのあなたの小さな体に針を刺して、採血する度に泣いているあなたの声で、心が引きちぎられそうだったのを覚えています。でもあなたはその後、大きな病気をすることなく色んな人に可愛がってもらって、すくすく育ちました。 ⁡  あなたのお母さんである私が、今の仕事である産前産後ケアをしているのは、あなたが私の元に来てくれたおかげです。赤ちゃんの偉大さ、お母さんが笑顔であることの大切さを身をもって教えてくれたあなたに、心から感謝します。ありがとう。 そして、命を次の世代へ紡いでいって欲しいと思います。   高知県 UKIさん 題名:来てくれてありがとう 子どもへ伝えたい言葉:「私たちの所に来てくれて、ありがとう。あなたは、3年越しに私たちのもとに来てくれました。授かった時の喜びは、今でも鮮明に覚えています。」 

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れれれのれさん「お母ちゃんのモットー」

れれれのれさん「お母ちゃんのモットー」

『いつか参考にしていただけたら幸いです』   千笑ちゃん、笑万ちゃんが生まれてきてくれたこと。これはお父ちゃんとお母ちゃんが、辛いときほど支え合って仲が良かった証です。お母ちゃんはお父ちゃんが大好きで、あなた達は一生の宝です。  学生時代に出会ったお父ちゃん。社会人生活はそれぞれの地元高知と神奈川という遠距離恋愛。お母ちゃんはただただ仕事をして、お休みは家に篭っていました。お父ちゃんと3ヶ月に一回会えることが唯一の楽しみ。毎日電話で元気をもらい、一年半ほどして第一子を授かりました。 お父ちゃんは当時学生で、貯金なんてなかったけど、泣きそうなくらい嬉しいと言っていました。家族への挨拶は、初めて強く意志をぶつけました。話している中で、感情が高ぶり涙するお父ちゃん。はじめて泣いてる姿を見ました。  家族になるきっかけ、一緒に生活できるきっかけをくれた長女。あなたが生まれるまでに家族みんなの強い絆ができました。  高知で就職が決まっていたお父ちゃん。転勤族であることも分かっていたけど、お母ちゃんは大好きなお父ちゃんについていきました。 「赤ちゃん守ってあげられるのは自分だけだよ」 つわり、産休・育休、転職に向き合えた職場の先輩からの一言です。赤ちゃんのために身体を休ませよう。赤ちゃんのためにもらえるお金はもらおう。悪いことはしていない、赤ちゃんのためだ。それでもやっぱり少しは後ろめたい気持ちがあって。どんなことも一生懸命が伝わるくらい、毎日自分ができる最大限までやりきる。そうすれば、認めてくれる人がいると思って、お母ちゃんのモットーにしています。  生まれた長女といっしょに高知に来て半年、夜寝かしつけたあとは公務員試験の勉強を頑張りました。毎日やりきっているだけに、良いことが起きると嬉しいものです。洗濯物がお天気崩れる前に乾いた。そのくらいささいなことでも嬉しく感じるようになりました。見事に公務員に転職できたときは自分で自分を誇らしく思ってしまったほどです。幼くして保育園に預けて仕事に行くこと。たとえよく思わない人がいても、今理解されなくても、いつか自分の子どもには認めてもらえると思います。  慣れない共働き育児生活が半年経ったとき次女を授かりました。やっぱり私たちは大変なときほど授かる!お父ちゃんと支え合って仲良くやってきたんだな!そう確信させてくれた出来事です。今まで子育てしてきた中でも、出産ではなく、赤ちゃんがいると分かったときが一番嬉しい瞬間でした。  次女を出産して4ヶ月。育休中のお母ちゃんは今、引越し準備をしています。思っていたよりも早く訪れたお父ちゃんの転勤でした。子どもを守るためにそれぞれの場所で毎日やりきること。覚悟していたけれど、直面すると高知でひとりで2人を育てていくことが少し不安です。  そこで、育児中しばしば突入する感情のトリップ状態に入ることにしました。感情のトリップ状態とは、子どもが何回も同じ歌を壊れたラジオのように歌ったり、何を言ってもイヤイヤと言われるときに、私も一周まわって諦めて壊れてみることです。けっこう子どもにはウケがよく、気分が紛れるのか思うように動いてくれます。育休の間、転勤に着いていくことは家族旅行だと思おう。楽しもう。家族一緒に生活ができる喜びを再び噛みしめて過ごす予定です。  そして、その先のことは、ワンオペ育児と仕事という環境の変化はあるけれど、お母ちゃんのやり方は今までと変わらないことに気づきました。子どもを守るために、毎日やりきるだけです。何かあったらまずお父ちゃんを頼るだけです。2人を振り返って文章に落とした今、やることが変わらないことに気づき心が落ち着きましたよ。  お父ちゃんと支え合いながらこれからも仲良くいられますように。私たちの背中を見て、前向きに笑って育っていってくれることを願っています。   高知県 れれれのれさん 題名:お母ちゃんのモットー 子どもへ伝えたい言葉:「いつか参考にしていただけたら幸いです」 

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ゆずっこさん「もしも生きている理由が欲しくなったら」

ゆずっこさん「もしも生きている理由が欲しくなった...

『大事な絆を守ってくれてありがとう』   愛しの娘へ もしあなたがいてくれなければ、私はとても寂しく今を生きていたのではと思います。 あなたが私のお腹の中に来てくれたとき、私はパパと大阪に住んでいました。 お仕事をしたり、パパと同じようなことで何度も喧嘩をしたり、つわりで寝込んだこともあったけど、大体はそんなのいつでもできるでしょってことだけを毎日して過ごしていました。 あなたを産むために実家のある高知に里帰りをして、その時はじめて、あなたにとっての曽祖母・私にとって大好きなおばあちゃんが余命宣告を受けていたことを知りました。 あなたがお腹にいなかったら、私は亡くなる前のおばあちゃんには会えなかったことでしょう。 生まれたばかりのあなたをおばあちゃんに見せたとき、おばあちゃんが「まぁそっくり!」と言って微笑んでくれたことが今でも心に残っています。おばあちゃんが私のことを本当に可愛がってくれてたのだと改めて感じれたのは、まちがいなくあなたが生まれてきてくれて、おばあちゃんに会わせてくれたおかげです。ありがとうね。 あなたが生まれてからも、パパとはたくさん喧嘩をしました。 もちろんあなたが知っているようにいつもはとっても仲良しのパパとママですが、パパとママが今のパパとママの形になれるまでに、たくさんの時間がかかったんだよ。 小さなことが許せなかったり、譲れなかったり、恋人時代も何度も「もう別れる!」って言ってたけど、結婚してあなたを産んでからもなかなか心が大人になれなくて。 今思えばいろんな覚悟がたくさん足りてないまま、あなたを産んでしまったのだと思います。ごめんね。幼かったあなたの記憶にはないだろうけど、たくさん泣いてる姿を見せてしまったよね。そのたびに不安そうにあなたが私を見上げていて、その姿にまた胸が苦しくなったのを昨日のことのように思い出せます。 たくさん心配してくれてありがとう。勝手だけど、その分はあなたが私たちの元から巣立つまでに少しずつ返せていけたらと思います。 今、私はパパと一緒にいられてとっても幸せです。 どんな喧嘩をした時も、ふと私とあなたとの未来を想像して、その思い出の中にパパがいなくちゃ寂しいなと、三人で笑っていたいなと、そう思えたから今があります。 数年前まで「人生なんて最悪だ」と思っていたこともありましたが、去年も今年も、それからきっとこれからも、私は「今年が人生で一番幸せだった」と言えるんだと思います。 それは、あなたが何度も何度もパパに向き合う勇気をくれたからです。 あなたは生まれてまだたった5年しか経っていないけれど、私にとってたくさんの大事な絆をひとつひとつ拾い上げてくれました。 私に与えてくれたたくさんの力、あなたは覚えていないでしょう。たった5歳までで、私にとってのあなたは本当に意味のある存在になりました。 だからきっとこの文章をあなたが読めるようになる頃にはもっともっと、あなたの知らないところで、また誰かの力になれてるんだよ。 これから長く生きていると、誰かに傷つけられたり、逆に傷つけてしまったりして、自分の存在価値なんて考えてしまったりして、なんでもいいから縋りたくなるときがあるかもしれません。 そんな時は、この文章を読んで欲しいです。そして少しでもこの文章があなたの力になれたら嬉しいです。 ママにとってのあなたは本当にかけがえのない存在で、しかもママをたくさん助けてくれた存在でもあって、愛おしくて、大事なんだよ。 あなたがいてくれたことに、ママがたくさん感謝していること、パパとママはあなたが生きていてくれているだけでいいんだってこと決して忘れずに。忘れてしまっても必ず思い出してください。 最後に、長く強く幸せにあなたが生きられますように。 あなたのことが大好きなママより   高知県 ゆずっこさん 題名:もしも生きている理由が欲しくなったら 子どもへ伝えたい言葉:「大事な絆を守ってくれてありがとう」 

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加藤彰子さん「あのあったかさはずっと母ちゃんの宝物」

加藤彰子さん「あのあったかさはずっと母ちゃんの宝...

『頑張って生まれてきてくれた兄ちゃんのおかげで母ちゃんは母ちゃんになれて幸せな気持ちを味わえてる、ありがとう』   え、我慢できない、 「ねえ、お漏らししちゃったかも」 冬の夜、TVを観ながらこたつに入って布オムツを縫っている時だった。 トイレに行って座っていたらお漏らしどころかお湯がどんどん流れ出てきて、「これって、母親学級で聞いた破水ってやつ?まさかの?まだ37週なんだけど、、、」と思っているうちに量が増えてきて、ちょっと怖くなった。 「ヒデちゃん、病院にいったほうがいいみたい」 すぐに電話をして、お産のセットを持って夫婦で病院へ。感染症予防で腕に筋肉注射を打たれたり、お湯はまだまだ止まらなくて、1月の夜の病院の廊下の椅子でただただ夫婦で身を寄せ合っていた。 初めてのお産。 母ちゃんも兄ちゃんも何にも準備が出来てないのにいきなりの出来事で、お互いびっくりしたよね。 分娩室の奥に陣痛室があって、多分4人くらいの妊婦さんがウンウン唸ってた。母ちゃんも支度をして、初の筋肉注射の激痛と羊水が流れ出る不安でいっぱいの夜を過ごした。 兄ちゃんが産まれたのは次の日のお昼過ぎだったから、一人で陣痛室に居たのはそんなに長い時間じゃなかったけれど、みんながどんどん分娩室に向かうのが聞こえてくるから、母ちゃんもちょっと大きな声を出して看護師さんに気づいてもらおうとしてたなあ。 お腹も徐々に痛くなり始めてたけど、「まだ産まれないでしょう」と言われて、2本目の筋肉注射は今度はお尻。足がもげるくらい痛くて、陣痛と区別がつかなかった。 家族も入れない一人きりの部屋で、お腹の子供がどうなるのか見当もつかない未知の時間だった。 陣痛室の外は、相変わらず気忙しそうにバタバタしている音が続いて、このままだと忘れられてとんでもないことになっちゃったら嫌だ!って思ってさらに大きな声で痛い痛いとアピールをしたら、看護師さんがきてくれて、呆れた顔で分娩台に連れて行ってくれた。 もっと優しくしてよ〜〜〜 心の叫び。 足もお腹も痛いんだから分娩台に一人じゃ乗れないよ〜〜〜涙 夜から休みなくお産が続いたら、看護師さんだって疲労困憊で表情もなくなるよなあ、今だからそう思えるけど、31年前の母ちゃんにはそんな余裕はなかったよ。 いきんだり、休んだり、きっとそんなことをしてたんだろうけど、覚えてない。 兄ちゃんがなかなか出てこない。母ちゃんは筋力がないから、いきむときにバーを掴む力が無くて、全身すっかり疲労しちゃってた。 看護師さん同士で「心音が下がってる」と言ってるのが聞こえてヒヤッとした。若い女性の先生が一生懸命自分の力でなんとかしようとしていたみたいで、看護師さんがこっそり大先生に声をかけに行ってくれたんじゃないかな。大先生がいらして、ササッと指示をして、一斉に体制が変わったんだよね。 原因としては、兄ちゃんの頭のサイズと母ちゃんの産道のサイズが合わないからすんなり出てこれなかったみたいで、パチパチ切開する音が聞こえて、先生が母ちゃんのお腹の上から母ちゃんの呼吸に合わせてぎゅーぎゅー押し始めて、「もっといきんで!」と何回も言われたんだけど、こんな状態これ以上は無理っていうくらい本当に息ができなくなって苦しかった。 その時に「私が諦めたらお腹の赤ちゃんが死んじゃう」って思った。 だから頑張った。 やっと外に出てきてくれて、母ちゃんの胸に兄ちゃんをペタッとくっつけてもらった感触が信じられないくらいあったかかった。あのあったかさはいまだに忘れてないよ。ずっと母ちゃんの宝物。 一瞬の天国の後で、母ちゃんはすぐに処置が始まって、兄ちゃんは看護師さんに綺麗にしてもらって外で待ってるばあばあやお父さんのところに連れて行ってもらったんだよ。 お父さんが抱っこしてくれて「赤ちゃんでもこんなに髪の毛があるんですね」と言ったって。 頑張って生まれてきてくれた兄ちゃん。兄ちゃんのおかげで母ちゃんは母ちゃんになれてたくさん新しい経験ができて、幸せな気持ちを味わえてる、ありがとう。   千葉県 加藤彰子さん 題名:あのあったかさはずっと母ちゃんの宝物 子どもへ伝えたい言葉:「頑張って生まれてきてくれた兄ちゃんのおかげで母ちゃんは母ちゃんになれて幸せな気持ちを味わえてる、ありがとう」 

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どんぐりママさん「3つの傷」

どんぐりママさん「3つの傷」

『話したことなかった傷の話』   3本の傷  私には中学生と小学生の2人の子供がいる。お腹には3本の傷がある。帝王切開だったからだ。  出会う人は自分の子供が産まれた時の出産体験を「陣痛が本当に痛くて」「子供が大きくて、力む時大変で裂けて」「安産で◯時間でうまれたの」と話をしてくれる。 そして、「あなたはどうだった?」と当然の流れになる。私はなんの躊躇もなく「私は2人とも帝王切開。今の医療のお陰で出産できたよ。ありがたいね。」と話す。 自然分娩と帝王切開、漢字で書くとこんなにも違うけれど、自然分娩はもちろん、予定帝王切開の出産も、緊急帝王切開の出産も立派なお産。 母子ともに安全に産まれる素晴らしい技術である。  明るいライトがたくさんの手術室にはアンジェラ・アキのピアノと歌声が流れる。 先生2人はテンポよく話をしながら手術を進める。麻酔は聞いているがハサミでチョキチョキされる感覚、「ちょっと引っ張りますよー」の声のあと、子供を取り出す感覚、内臓ごと胎盤を引っ張り出す感覚、そして、子供の産声。 はじめて、助産師さんが顔の横に連れてきてくれて子供と会えたとき「あったかい。可愛い。産まれてくれてありがとう」と涙が止まらなかった。 ちなみに男の子の時は同級生だった助産師さんに「ちゃんとついてる?」と確認する余裕もあった。    4つ上の彼氏とは高校卒業からずっと遠距離で、23歳の時に結婚の話になった。 私は転勤のある会社で正社員になったばかりで、5年ぶりに一人暮らしを終え、帰って来たばかりだった。地元に留まるため結婚という流れでもあったが、結婚が決まったとたんに地元から車で3時間のところに転勤が決まった。そこからは結婚の準備をしながら、慣れない業務をこなし怒涛の毎日だった。 そんな中、やっとの休みに友達と出かけ多際、下腹部に激痛が走り、動けなくなった。夜中救急外来へ友達に付き添われ行った。一通り検査をし、国立病院に紹介状を貰い、翌日産婦人科を受診した。 【拳大の子宮筋腫】それは【悪性疑い】だった。 若いので産婦人科の検診など受けたことがなかった。良性か悪性かは組織検査をしないとわからないという診断だった。  すぐに手術が決まった。気づいていなかったが、貧血も起きており、癒着の可能性もあった。 彼には結婚は辞めようと話した。仮に手術が成功して良性の子宮筋腫だったとしても、手術の後、不妊になる可能性が高いと説明を受けたからだ。  ずっと学生の時から生理が重く、恥ずかしがらずに産婦人科検診を受けていたら良かったと思う。ちなみに、子宮の手術をした場合、自然分娩は子宮破裂の可能性があるため必ず帝王切開での出産になる。 手術を受けるまでは、悪性かもしれない、子供ができない、自然分娩が出来ないかもしれない自分が悔しくて泣いた。 今の夫は言った。 「子供が出来なかったら養子でもいい。今は治すことを考えて。結婚はやめないよ。」 これが1本目のお腹の傷である。 私のお腹には3本の傷がある。 君達が今、姉弟喧嘩して、反抗期で、母は怒るけれど、しょっちゅう夫婦喧嘩してるお父さんお母さんは君達が大好きだ。 子供達、私たちのもとに産まれてきてくれてありがとう。   高知県 どんぐりママさん 題名:3つの傷 子どもへ伝えたい言葉:「話したことなかった傷の話」 

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岡崎久美さん「当時気づけなかった幸せ」

岡崎久美さん「当時気づけなかった幸せ」

『〜母の想いとは裏腹に素直に成長してくれたわが子‼︎  娘の笑顔が宝物~』   私はもう一度子育てをやり直したい、孫が欲しいと言う周りの友人に対し私はいつもこう話しています。 どうしてもっと優しくしてあげられなかったのだろう、どうしてもっと遊んであげなかったんだろう。子供の気持ちより自分の思いを優先していた子育ては、反省と後悔の連続でどうしてあの時・・と思う後悔の念ばかり。 3歳の息子を育てながらの第2子妊娠では絶対に女の子!と信じて疑いませんでした。予定日より35日も早く2420gの待望の女の子が誕生。 出産後すぐに仕事を再開し、2人の子育ての厳しさを目の当たりにしながら忙しい日々の始まり。心身共にとても疲弊し子ども達の世話に追われる日々は永遠に続く、そんな気持ちになり不安が膨らむ毎日。 あんなに女の子誕生に喜んでいたのに、子供の気持ちに寄り添う事が出来ず、目の前の現状ばかりに気を取られ毎日カリカリしていました。 小さな頃から好奇心旺盛でお転婆娘。少し目を離すと裏の広大な田んぼをプールに見立てあっちの田んぼ、こっちの田んぼと「大きいプールいっぱい」と言って泥だらけになりながら水遊びをするヤンチャ娘。 そんな娘が年長の頃、複雑性音声チックになってしまいました。その時は何故そうなったか、理由もわからず右往左往し病院通い。母親の愛情が足りない、と周りから攻められる日々。 愛するわが子に愛情は注いでいる!何がいけなかったのかわからずとても苦しかったです。 嫌な事をしてでも構ってもらおうと自分をアピールするも、構ってもらえなかったさみしさからきたと思われるわが子の反応。 これほどのチック症が出るまで沢山の我慢をさせていた事にやっと気づきました。望めば行かせていた大好きな祖母宅も、私に構ってもらえないさみしさから祖母へ救いを求めていたのかもしれません。 このままでは無事入学できるのかと不安に苛まれる日々。いつ何時も無償の愛を注いだ筈の我が子でしたが、同じ愛情を注いでも、人格が違っていれば受け取り方や感じ方も違う。とにかく深く関りをもつ、小さな暖かい手をぎゅっと握る、とにかく抱きしめる事に専念しました。 幼いながらに気を遣い、優しさも作り笑いも見抜かれて、私が心から笑うと子供は安心する。子どもを構って愛情表現してみると、なぜか自分自身も癒されてたりするのです。 ある日気づけば娘のチック症はすっかり治っていました。とても長く感じられましたが2か月程の出来事で、無事入学式を迎えられた時は感涙ものでした。 その後も規格外のヤンチャ度で何度も先生から呼び出しをうけます。 一つ一つの行動に対し子供と一緒に考える余裕はなく、親の目線から正しい事の押し付けで話聞かせていましたが、最後の方は諦め、この子はそれで良い、と認めることにしました。 そんな娘が5年生から優等生に急変身。学校から何度も表彰される様になりました。 ある日学校で書いた作文が、あと一息で文部科学大臣賞という快進撃。 その時先生が親宛に「このような生徒と関われた事とても嬉しく感動しました」と言いながら直筆のお手紙を持って来て下さり、娘の成長がとても嬉しく誇らしかったです。 小中学ではバレーのコーチとして関わり娘と共にバレー三昧。 高校は親元を離れ市内で寮生活を始めるもホームシックで毎週土日は自宅で過ごす娘。この間、往復の車中では娘の心中を沢山聞く事ができ益々親子の絆が深まり幸せな時間でした。 今、大学卒業を目前にどんどん自立していく愛する娘。 戻れない過去の幸せを振り返るよりも未来に思いを馳せ、娘が育児に躓いた時は協力してあげよう。子供の気持ちに寄り添い、何を望みどんな気持ちかを考え接してあげよう。当時祖母が私と娘にそう接してくれた様に・・・。 子育ての中で、時間も体力も気持ちも子供の為にという自己犠牲の中、育児の壁を乗り越えながら成長し、子育てを通して「人の為に」という精神を学んだように思います。   高知県 岡崎久美さん 題名:当時気づけなかった幸せ 子どもへ伝えたい言葉:「〜母の想いとは裏腹に素直に成長してくれたわが子‼︎  娘の笑顔が宝物~」 

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とねりえこさん「お母さんと子どもをつなぐ絆」

とねりえこさん「お母さんと子どもをつなぐ絆」

『私のところに、産まれてきてくれて、ありがとう』   「元気な男の子です」 助産師さんの言葉と分娩室に響いている産声を聴きながら、大きな安堵感と、陣痛からの解放による脱力感、不思議な感覚が全身をめぐっていました。 骨盤が狭く、なかなか生まれず、陣痛で嘔吐し続け、痛みで眠れず、陣痛促進剤を点滴しつつ、赤ちゃんの心音の戻りも遅く、帝王切開も並行して準備していた、そんな出産だったのです。(無事にやっと会えた)  私は産科で働いていたので、そこでみていたお母さんたちも、こんな風に感じてたのかなと、腕の中の長男を眺めながら、しみじみ思い返しました。  初産の妊婦さんが、一週間で出産を通して、お母さんの顔になる。そんな人生の1ページに立ち会える仕事に、なんというか、充実感を感じていました。 私が働いていた病院は、年間千数百件の出産があり、海外の方、聴覚障害の方、子供に障害がある方等々、様々な方も出産される病院でした。  そんな数ある出産の中で、胎内記憶や誕生時記憶があるお子さんがいたのです。そのお母さんは、切迫早産で入院されていたのですが、赤ちゃんがお腹の中にいる時にお母さんがしていたこと、感じていたこと、出産時の状況などをお腹の中にいたにもかかわらず、あたかも見ているかのように、物心ついてから、話してくれたそうです。池川明先生の著書をのちに読み、納得した出来事でした。  最近、池川先生は、お母さんの妊娠中の感情が重要な役割を果たしている、というエピジェネテイクスの説があるといわれているそうです。 それは、各個人それぞれ、イライラやよろこびなど、特定のフォトン情報を受けやすい、自己レセプターがあり、身の回りにあるフォトン情報を受け取り、遺伝子にダウンロードして、遺伝子のスイッチONになるそうで、妊娠中の赤ちゃんや、子どもに対しての、思いや声掛けは大切であり、夫との関係も良好な方がよいとのことです。  確かに、胎内にいる時に、お母さんの感情と、自分の感情と区別がつかない時にできたおもいの偏りは、赤ちゃんに残っており、私もしているヒーリングの対象で、なかなか気づきにくく、人生への影響も大きかったりします。  また、胎内記憶の調査によると、「お母さんを笑顔にしたくて、生まれてきた」というお子さんが圧倒的に多いそうです。お母さんを笑顔にするのが、第一ステージ、それが達成できたら、自分のステージに移れるそうです。  そういえば、長男を妊娠する直前に、夫ととても大きなケンカをして、別れようと思っていました。急いで降りてきてくれたのかな。今、そんな長男も20歳、私もお母さんにしてもらって、はや20年。同じように育てたのに、3人の子どもは、それぞれ違う性格で、違う趣味。 私も夢中で、子育てと家事と仕事をして、くたくたになって、帰ってきたときには、怒ってばっかりいて、子どもに覚えたての字で「おこりんぼうのおかあさんだけど、だいすき」のお手紙をもらいました。オキシトシンもカスカスだっただろうと、今でも反省しています。  女の人は赤ちゃんを産むので、感じるチャクラである、第二チャクラのエネルギー容量が2人分くらいあるそうで、そこが子どもと12歳くらいまでつながってエネルギーのやり取りをしているそうです。確かに思い当たることは、子育ての中でいくつもあります。  現代の生活の中で、女性は仕事や家事、子育てで、感情に蓋をして生活をしてしまっていることが多く、感じる事で、お子さんに渡すはずのエネルギーも枯渇しやすい状態かもしれません。 「お母さんや女性が笑顔で輝くことで、家族も幸せになれる」は、もうじき科学でも証明されることでしょう。  我が家では、もう子どもたちも大きくなり、残り少ない子育ての期間ですが、反省とともに、子どもや次の世代につなげていけるよう、一緒に成長しながら、大切な時間を過ごしていきたいと思います。   和歌山県 とねりえこさん 題名:お母さんと子どもをつなぐ絆 子どもへ伝えたい言葉:「私のところに、産まれてきてくれて、ありがとう」 

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丸山貴和さん「歓喜のうた」

丸山貴和さん「歓喜のうた」

『〜喜びと微笑みを〜そのままのきみは美しい!』    暑い夏が過ぎ、快適で心地よい涼しさを感じる八月末の晩ー。 秋の虫たちが一斉に鳴き始めるこの時期は、私にとってとても感慨もひとしおな季節です。  さかのぼること八年前ー。そう、無事に出産したあの日の晩も、産院の外の草むらで鈴虫やこおろぎたちが、割れんばかりの大合唱で鳴いていたことを思い出します。  産前は幸いにもつわりがなく、順調なマタニティライフを過ごしてきましたが、いざ陣痛が始まってからは、まさに想像を絶する「産みの苦しみ」を味わうことになりました。 出産予定日を5日過ぎてもなかなか破水せず、高齢出産かつ初産だった私は、無事に出産できるかどうか、体力が持つかどうかとても心配でした。 本来であればもしものことを考え、医療設備の整った都市部にある大病院での出産が望ましいと、知人友人にアドバイスを頂きましたが…。私を大切に育ててくれた祖父母にひ孫を抱いてもらいたかったことや、産後のことも考え、実家の田舎町で里帰り出産という道を選びました。  さてさて、確実に陣痛は来ているもののなかなか「その時」はやってきません。 陣痛の間隔が短くなるほど、気の遠くなるような辛く大変な時の流れを感じました。 苦しさまぎれに、当時所属している合唱クラブで練習していた第九合唱「歓喜の歌」のドイツ語の歌詞を、まるで念仏のように唱えていたことを思い出します。  日が変わり、ようやく待ちに待った'その時'がやってきました。ちょうどタイミングよく仕事が休みで産院に駆けつけていた夫も分娩台のそばで、見たこともないような緊張の面持ちで手を握ってくれていたのを覚えています。 そしてついに、「歓喜の瞬間」がやってきました! わたしの子宮から産道を通り、コチラの世界に出てきたのは待望の女の子! 生まれたての赤ちゃんに、まず一番初めにかけた言葉は「ALOHA~!!!」でした。 これにはさすがの産科先生や助産師さんもびっくりして大笑い。 当時ハワイアンのお店を営んでいた私にとって「ALOHA!」というご挨拶は常に慣れ親しんだことばでした。 数日前から、生まれてきたわが子に一番初めになんと声をかけようか迷っていたものの、いざ'その時'がきた瞬間、口を衝いて出たのはやっぱり「アロハ!」。 南国ハワイのおなじみの挨拶でもありますが、「ALOHA」ということばには幾重にもさまざまなな意味があり、その中でも一番スペシャルな意味が「今わたしは神様の前にいます」というもっとも尊く、神々しい瞬間に使うことばだそうです。まさに私にもその瞬間がようやく訪れたのでした。  分娩室でしばらく生まれてきたわが子の誕生を祝い、お見舞いに駆けつけてくれた実家の家族をはじめ、みんなで待ちわびた感動と無上の喜びを味わいました。    その夜…。そう、この日生まれてきた娘と無事に出産を終えた私に、まるで心から精一杯の祝福をするように、秋の虫たちのコーラスはまさに「歓喜の第九合唱」に聞こえたのは言うまでもありません。ようやく生まれてきてくれた娘の顔を見ながらこの上ない幸せに満ちたりた気持ちで眠りにつきました。    そして毎年…娘が生まれたちょうどこの時期、秋の虫たちが心地よいコーラスを聞かせてくれる甘美な夜にこう祈ります。 「世の中のすべてのお母さんや子供たちが微笑みと喜びで満ちあふれますように。」 そして私の横ですごい寝相ながらもスヤスヤ眠る娘の寝顔を眺め、 「かわいいね。きみは君のままで美しい!」 …この時期はそんなささやかで静かな感動に浸りながら眠りにつきます。   新潟県 丸山貴和さん 題名:歓喜のうた 子どもへ伝えたい言葉:「〜喜びと微笑みを〜そのままのきみは美しい!」 

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リトルんるんさん「愛だとゆうこと」

リトルんるんさん「愛だとゆうこと」

『当たり前ではない日常に感謝したくさんの人の温かい愛に包まれて自分が今ここにいるとゆう事関わってくれるすべての人にありがとうをたくさん配って生きて欲しい。』    愛だとゆうこと    私は現在9ヵ月の妊婦です。妊娠が分かりすぐつわりが始まりました。2人目なのでまたまだ手が掛かるの2歳半の娘の育児をして妊婦生活なんて私には大丈夫なんだろうかと心配しつつ家族が増える喜びを感じていました。つわりは自分との戦い。甘えたいと思いきやだだをこねるイヤイヤ期の保育園の送り迎えはとても気合いのいるものでした。娘は私の体調不良やどんどん大きくなるお腹…なかなかママには抱っこしてもらえない状況を何か感じているのか甘える事が多くなりました。  安定期に入り周りに妊娠を打ち明けると…おめでとう。二人目…あ、3人目だね。と言葉をかけてくれる友達がいました。  実質3人目の子供。この事をしっかり話題に交えてくれることがとても嬉しかったのです。  と、言うのは四年前私は1回目の妊娠をしました。何もかもが初めての経験で毎日がふわふわした気持ちだったのを覚えています。6ヵ月の定期検診。いつもよりエコーの時間が長い。次の瞬間言われた言葉は「横隔膜ヘルニアだね」説明されても全く意味が分からずすぐさまインターネットで検索。手術をして元気になった子、短命で生きた子いろんな記事がでてきました。  旦那さんにその事実を伝えると、出た言葉は…産まれてくれるのなら育てるしかないだろ。自分のパートナーがこの人で本当に良かったと思いました。  いっぱい涙して色んな思いが巡ったこともありましたが桜の咲く温かい時期に長男なりくんが生まれてくれました。生まれたその日の晩、先生から今夜が山かもしれないと言われましたがなんとか持ち堪える事ができました。  初めての対面したときは身体全体で必死に呼吸し頑張って生きようとする姿を目にし生命力を感じ自分だけ泣いている暇はないと逆に勇気付けれる思いでした。そしてこんなにも愛してると思う存在が一生懸命生きている事に対しありがとうの気持ちでいっぱいでした。  治療を頑張るなりくんを見守る毎日が続きました。秋には一旦お家に帰れそうですよ。と言われ天にも登る様な気持ちなった次の日…急変したと病院から呼び出しがありお空に旅立ちました。生後2ヵ月になる前の日…桜の時期が終わり道路には金木犀が咲く頃でした。  なりくんは一生を病院で過ごしました。初めてパチっと目を開けた時はほんとに可愛いくて驚きました。上手に目をキョロキョロしたり口をもぐもぐさせたり。嫌なことはちゃんと泣いて知らせてくれました。そんな些細な出来事がとても嬉しく感じられる瞬間が幸せでした。面会後は決まって「なりくんてほんとに可愛い」と言いながらの帰り道。とっても楽しかった思い出です。  そして一緒に涙して悲しんで支えてくれた親、友達、病院の先生や関わってくれる全ての人の温かい言葉は私の力にかわりました。  なりくんは生きて行く事は叶いませんでしたが無条件に愛を与えてくれ今まで感じた事のない感情、周りからの奥深い愛にも気づかせてくれました。  ありがたいことに一年半後に長女を出産。  そして今、実質3人目となる第2子の男の子を妊娠中です。  毎日の育児の忙しさに追われ長女の行動に対しダメダメ、汚い。などつい日々の出来事をマイナスにとらえがちになっている今ですが…  なりくんの死を経験し教えてもらった命の尊さ、周りから与えてもらっているように私もまたみんなに愛を与えたい。自分が強く成長出来たことを自信に変え誰かに大切にされる暖かさをまた子供達にも伝えたい。そして当たり前ではない些細な出来事も敏感に味わいありがとうの気持ちを大事に毎日を過ごして生きたいです。   富山県 リトルんるんさん 題名:愛だとゆうこと 子どもへ伝えたい言葉:「当たり前ではない日常に感謝したくさんの人の温かい愛に包まれて自分が今ここにいるとゆう事関わってくれるすべての人にありがとうをたくさん配って生きて欲しい。」 

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鶴田まりもさん「立派なお兄ちゃんじゃなくていいんだよ」

鶴田まりもさん「立派なお兄ちゃんじゃなくていいん...

『ママを大好きでいてくれてありがとう。毎日、ママ、ママ〜と読んでもらえてたくさんの愛を感じるよ。』   立派なお兄ちゃんじゃなくて、いいんだよ。 3歳になったばかりの息子。 赤ちゃんがミルクを吐けばガーゼを取ってきて、泣き出すとバウンサーを揺らしてくれる。ママのことをよく見てお世話してくれてありがとう。 上の子が2歳を過ぎた頃、2人目の妊娠が発覚した。 妊娠発覚と同時につわりが始まり、元気いっぱいの2歳の息子と全力で遊ぶことが難しくなった。今までのように遊ぶことができなくなった理由を息子に伝えた。 2歳といえばイヤイヤ期真っ盛り。これも成長!!とわかっていながらもイヤイヤ言われると体がしんどいこともあり、感情的に怒ってしまうこともあった。 それと同時に、息子は不機嫌になることが多くなってきた。 保育園ではご機嫌なのに、私がお迎えに行くとあからさまな不機嫌な態度。2歳児なりにママの様子が今までと違うことには気づいていた。 保育園の送迎だけでも吐き気と戦いながらで毎日が辛かった。そんな中、保育園の帰りにおやつを買いたいとコンビニを何軒もはしごすると上の子は要求してきた。なんと毎日1万歩も歩いていた。感心したのはコンビニを何軒巡っても、お菓子は一日一個だけという私とのお約束は必ず守れる息子。コンビニに行くと自分のおやつとママの分と私の分まで選んでくれる優しさにも時折ホッとした。 お腹が日に日に大きくなってきて、2歳半過ぎた息子も赤ちゃんが産まれてくることを認識し始めた。 「赤ちゃんが産まれたら、パパが赤ちゃん抱っこ、ママは僕を抱っこ。」はっきりと口にする。赤ちゃんが産まれたらまずは上の子との時間を大切にしようと心に決めた。 そのために産後まずは自分の体を休めることにした。 産後5日間入院し退院した後、そのまま産後ケア施設で6泊し、授乳ケアを受けることにした。 心配は私と離れて寝たこともない息子だった。 大きくなるお腹をみて赤ちゃんがいることは理解しながらもお腹を滑り台にして遊ぶ元気いっぱいの息子。出産の数ヶ月前から何度も、赤ちゃんが産まれるときはママと赤ちゃんは病院にお泊まりすることも伝えた。「僕も一緒に病院でねんねする。」という息子。 あっという間に臨月になり、夜陣痛らしき痛みが始まった。 夫と息子に産婦人科まで送ってもらい息子とバイバイ、タッチをした。別れ際息子は不安そうな顔で私をみていた。 自分の出産より、甘えん坊の息子が心配で涙が出た。マスクで涙は隠れていたので、目元だけは頑張って笑って見せた。 これから10日以上も離れ離れの日々。 息子はそんなに長い間会えないとは思っていない。パパと2人で寝ることも今回が初めてだった。幸いにも無事赤ちゃんは産まれ、順調に産院を退院できた。 産後ケア施設に移りそちらをあと1日で退院という前日の夜中に夫から電話がかかってきた。息子が息が苦しいと泣き出して、呼吸困難に陥っているけどこんなこと今まである?と聞いてきた。 息子のこんな様子を見たこともない夫も焦っていた。電話越しに聞こえる息子の鳴き声。 「今すぐ、救急車を呼んで。」と夫に頼み連絡を待つしかなかった。心配で赤ちゃんの寝顔を見ながら自分を落ち着かせるしかなかった。それから数時間して夫から連絡が来て、高熱も出て熱性痙攣も起こしていたが、ひとまず落ち着いたから家に帰れたとの連絡。命に別状はなくてホッとした。 救急車が到着する前は、「ママに会いたい。なんでママいないの?」と泣きわめいたようでそれを聞いて私も泣けた。体調悪い時にそばにいられなくてごめんねと心の中で謝った。 翌日、12日ぶりに家に帰ると、恥ずかしそうに遠くから私を見ていた。 少しの時間離れた時は「ママー。」と走ってきてくれていたのだが、12日という時間が距離を物語っていた。 赤ちゃんを夫に預け、息子といっぱいハグをした。「赤ちゃんのお名前わからん。」屈託のない笑顔でそういった。 息子には今まで以上にいっぱいハグをし、大好きを伝えている。2人のママにしてもらったこと、これだけでも奇跡。   新潟県 鶴田まりもさん 題名:立派なお兄ちゃんじゃなくていいんだよ 子どもへ伝えたい言葉:「ママを大好きでいてくれてありがとう。毎日、ママ、ママ〜と読んでもらえてたくさんの愛を感じるよ。」 

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はるいママ「ワーママになれなかった私」

はるいママ「ワーママになれなかった私」

『かけがえのない2人と過ごせるこの日々を、大切に。私はあなた達に会えて、母親になれて、幸せです。』    母に妊娠を伝えた時こう言われた。「あなた子供の頃からお母さんになりたいって言っていたのよ。本当によかった」 そう、私は「お母さん」に憧れていて、長男を授かった時とても嬉しかった。エコーで小さな命を見た時、母になるという幸せと不安、半々の感情になったことを覚えている。  私は結婚後、新しく仕事を始めた。老人ホームの受付事務。前任者は入社後3週間で退職してしまい、わからない中でもどうにか仕事をまわしていた。そこで踏ん張って働く姿をみてくれていたのか、職場の人からも可愛がられていたように思う。その後人員が増やされ、引継ぎができた頃、妊娠。年上の先輩ママでもあった同僚の方に伝えた時、涙して喜んでくれた。切迫流産で1ヶ月自宅安静になった時もサポートしてもらい本当に有り難かった。  私は里帰り出産をした。妊娠39週目の夜、急にお腹の痛みを感じ、翌朝父が産院まで送ってくれた。ベッドの手すりにしがみつき、必死に痛みと格闘した。産院に6時間かけて主人が到着後、10分で出産となり、立ち合いで出産できた。私の息子。絶対に守るぞ、という気持ちが溢れた。  育休が明けてから私の周りは一変していた。同僚は退職しており、1年半ぶりの職場はマニュアルや利用するお客様の面々も変化していた。次に採用された方にまた仕事を教えながら自分でも勉強して、今思うと子供の体調と仕事との綱渡り状態だった。  そんなとき、神様からの贈り物のように、第2子を身ごもった。この子が今この瞬間を望んで、私達家族の元にきてくれたのだと思う程の引力だった。妊娠が分かって、産婦人科に初めて行った日。エコーの際お腹の中の小さな命と、同時にその隣に大きな血の塊もあることが告げられた。絨毛膜下血腫という症例で、1ヶ月は自宅安静、この後もどうなるかは分からないと説明を受けた。突然の不安と明日から休職という事実で頭が真っ白になった。上司に涙ながらに報告し、急に休職になったことを同僚に詫びた。  1ヶ月間、私は横になってただ血腫が小さくなることを祈るしか出来なかった。その間主人が「お腹の命は何も代えられないからね」と家のこと全てを担ってくれた。幸いにも血腫が縮小し、その横で小さな赤ちゃんはしっかりとしがみついてくれていた。この子は強い子だ。  ようやく職場復帰した時、同僚から「なんで今妊娠したんですか?どうして相談してくれなかったのですか?」と言われた。私は固まってしまった。何故、相談が必要なのだろう?上司には「仕事云々よりも、家族のことを一番に考えて」という言葉をもらっていた。でも、お腹の命より、仕事に穴を空けたことに対する怒りをぶつけられた現実がとても悲しく、悔しかったことを覚えている。  仕事と育児の両立には、制度の充実よりも職場の方々の理解があることが一番の心の支えになると私は感じている。私は同僚からの言葉で、私がワーママという立場であることに不満があり、それは拭えないのだと感じた。この場でこの先働くことは無理だと感じ、退職の道を選んだ。 次男の出産は突然だった。38週目の検診。内診中に急にバタバタした空気が伝わってきた。先生が「これは今日中に陣痛が来るから、このまま促進剤飲んで産んだ方がいいと思うけどどう?」と出産に関する同意書を用意していたのだ。自覚症状がなかったので驚いたが、覚悟も決まっていた。そこから驚くほどのスピード感だった。あっという間に分娩台に進み、「え、まだ早すぎる、無理無理!」と叫んだが、助産師さん達に励まされ、2時間足らずで次男とご対面できた。  私は息子達に「君達のことが大好きよ。生まれてきてくれてありがとう!」と毎日飽きるほど伝えている。それは、2人とも切迫流産の危機を乗り越え、妊娠中の環境にも一緒に耐えながら家族の一員として生まれてきてくれた本当に大切な宝物だと思っているからである。    香川県 はるいママさん 題名:ワーママになれなかった私 子どもへ伝えたい言葉:「かけがえのない2人と過ごせるこの日々を、大切に。私はあなた達に会えて、母親になれて、幸せです。」 

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keikooochi2022さん「大切な私の娘へ」

keikooochi2022さん「大切な私の娘へ...

『産まれたときも、今も、そしてこれからも、大好き』   この作文を書いている間に、あなたは11歳になりました。 お母さんの初めての妊娠がわかった時、すぐにつわりがひどくなり入院したり、当時の部署での仕事を続けることが出来ず異動させてもらったりと、バタバタとした妊娠生活が始まりました。 つわりが長引き殆ど食べられない中、胎動が感じられるまではあなたが無事育っているか不安で不安で、検診が待ち遠しかったのを覚えています。 日に日に大きくなっていくお腹は愛おしく、早くあなたに会いたい気持ちと、地元を離れての出産・育児への不安と、二つの気持ちがありました。 あなたは、そんなお母さんの不安な気持ちや、当時仕事が忙しかったお父さんの事が解っていたかのように、お父さんが休みの日曜日に、おじいちゃんおばあちゃん達も病院に到着してから産まれてきました。 ありきたりな表現ですが、とっても可愛いあなたが産まれて、お母さんが産まれてきた意味はあなたに会うためだったんだな、と本気で思いました。 不思議と通じ合っているような部分があって、夜寝ていても、『あ、今から泣く』と泣く前に目が覚めました。 でも、初めての赤ちゃんとの生活はなかなか思い通りにいかなくて、あなたをたくさん泣かせてしまって、お母さんもよく一緒に泣いてしまいました。 何を話しかけてあげたら良いのか分からなくて、あなたを抱っこしてずっと歌ったり絵本を読んだりしていました。そのせいか、おもちゃで遊ぶようになってからは音や歌や鳴るおもちゃが大好きで、本も大好きな女の子になりましたね。 お母さんは子供の頃、ひいじいちゃんひいばあちゃんも一緒に暮らしていたから、大勢に大切に育ててもらったと思います。 でも、小学校頃の思い出で、おじいちゃんおばあちゃんに抱っこされた記憶がありません(忘れているだけかもしれないけど、おばあちゃんは仕事が忙しかったので、あまりゆっくり抱っこしてあげられなかったと話してくれました)。 あとは、おばあちゃんが、おじいちゃんと結婚する時に仕事を変えてお嫁に来た話を聞いて、女の人って大変そうだな、自分の家や仕事から離れて田舎に来て今の生活は楽しいのかな、と思うことがありました(おばあちゃんは大変なこともあったけど幸せもたくさんあったと言っていましたよ)。 こんな想いがあったからかもしれません。 お母さんは、あなたの思い出に、お母さんにたくさん抱っこされた愛された記憶が残って欲しいと思うし、お母さんが仕事も生活も楽しんでいる姿を見せて、あなたも自分の事を大好きで楽しんで過ごして欲しい、と強く思います。 今のあなたには、お母さんはどんな風に映っているのかな。 5年生になりちょっとお年頃でよく口喧嘩にもなりますが、ふと、『お母さんがあなたのこと好きなの知っちゅう?』と聞くと、『知っちゅうき!今更何言ゆうが?』と答えてくれるので、今のところ伝わっているのかなと思っています^^ この作文は、あなたが大人になった時に届けようと思っていましたが、書いている途中、うっかりあなたに書きかけの文章を半分ほど読まれてしまうという出来事が…。 これも私たち親子の思い出ですね。改めてこの作文をあなたに渡すとき、あなたは覚えているかな?笑って話せるといいね。 産まれた時も、今も、そしてこれからも、大好き。 大切な私の娘へ。 母より。   高知県 keikooochi2022さん 題名:大切な私の娘へ 子どもへ伝えたい言葉:「産まれたときも、今も、そしてこれからも、大好き」 

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江口希昴さん「大好きな娘のために」

江口希昴さん「大好きな娘のために」

『ごめんねそしてありがとう。』   娘が産まれた時は感動とありがとうという感謝が、産まれる前は不安があった。 産まれる前の不安それは愛情を注いであげられるか。私は児童福祉施設で育った為大人からの愛情は分かっても親の愛情は知らなかったからだ。 そんな私は妊娠中たくさんの人と出会い 「きっと大丈夫。あなたはたくさんの人から愛されてるから」 と言われ頑張って育てる!と思うようになった。 出産して1番初めに感じたのは感動だった。 痛い陣痛も頑張って夜中から陣痛がきていた為寝てなかったがそんなのはどうでもいいくらいに元気な子を産みたいとお産を頑張った。 11時間40分くらいかけて産まれてきた。寝てなかったのもあり眠く、朝ごはんも食べていなかったためお腹は空いていた。 けどそんなのはどうでもようなるくらい感動がすごくあった。 同時に元気に生まれてきてくれた娘に対して生まれてきてくれてありがとう。私のとこに来てくれてありがとうと思った。 娘の父親とは別れているためどんな事があっても私が守ってみせるしどんな事があってもどんな時でもこの子を愛す。ちゃんと育ててみせる!と強く思った。 出産から1年5ヶ月後娘は一時保護として施設に。 理由は私が治療に専念するため。 腰痛がすごく酷く整形外科に行った。そこから紹介してもらいほかの病院へ行きさまざまな検査をしてもらった結果年間10万人に5人しかならない希少な癌になっていることがわかった。 入退院を繰り返し3週間1クールを7、8回行う治療な為施設を急いで探し預けた。 娘と離れるのはすごく寂しかった。けど娘も同じ思いで預けた時は泣いていた。 心が痛かった。 ごめんね。 ほんとにごめんね。 ママ、ちゃんと病気治して迎えに行くから待っててね。 そう何度も心の中で思った。 治療中体調いい時は電話をしたくさん娘の声を聞き、娘のためにも絶対完治させると思いながら頑張った。 そして娘を預けてから7ヶ月後やっと迎えに行けた。 迎えに行った時は施設の人には感謝しかない。 そして娘には長い間待たせてごめんね。 ちゃんと待っててくれてありがとうと思い2歳になったばかりの娘にはごめんねありがとうと何度も伝えた。 癌の治療は今転移したとこの治療をしているが、娘のために元気になりたいから頑張れる。 娘が大きくなったらあなたのおかげてママは辛い治療も頑張れたのよ。ありがとう。と伝えたい。 病気になってからすごく思ったのは子供の存在は大きいということ。 私は今までもこれからも娘のためにたくさんのことを頑張りたい。 最後に大好きな娘に私を選んで私のとこに来てくれて私をあなたのママにしてくれてありがとう。 今は病気のせいでたまに寂しい思いさせてごめんね。 病気が完治したら寂しい重いさせた分たくさん楽しいことしようね。 大好きだよ   高知県 江口希昴さん 題名:大好きな娘のために 子どもへ伝えたい言葉:「ごめんねそしてありがとう。」 

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    第1回ぐるっとママ懸賞作文
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    ダイイッカイグルットママケンショウサクブン
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